フォーク雑話⑪「ムーちゃんの思い出」

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 高校生のころ僕は鵠沼海岸に住んでいた。ある日、すぐ近くに住む親友の永井修二君(故人)が1枚のLPレコードを手に興奮気味に我が家に走りこんで来た。
「これ、聞いて見ろよ」
すぐレコードに針を落とす。
1曲目「Look Over Your Shoulder」、僕は驚愕した。鳥肌がたった。
「風に吹かれて」「M.T.A」「One More Town」---全曲聴いた。
何というスゲー奴らなんだ。
 それは永井が通う慶応志木高校のバンド、ザ・ニュー・フロンティアーズがポリドールレコードからリリースした「フォーク・ソング・ベスト12」というタイトルのものだった。 
 メンバーは瀬戸隆介、森田玄、新庄駿。(森田は都立西高校)
初めてムーチャンこと新庄駿との出会いだった。

 その後、ニュー・フロンティアーズは新庄にかわり吉川忠英がメンバーとなり、本格的にプロをめざした。
そしてムーチャンは、産声を上げたばかりのザ・モダンフォーク・フェローズに加わった。彼が入ったことにより、レパートリーも増え、活動の幅もひろがった。フォークソングブームの波に乗りいろいろなコンサートやラジオ・テレビにも出演した。レコードも出すことが出来た。
 慶応日吉のキャンパスでは、学生食堂の片隅で、グラウンドを囲む森の中で、放課後の教室で、いろいろなフォークソング・グループが練習していた。
 ニュー・フロンティアーズ、フォー・ダイムス、ランブリング・バーミンズ、世界民族音楽研究会、そして我々も。
 皆、はち切れんばかりに青春の一ページを謳歌していた。
 ムーチャンの甘い声はみんなの憧れだった。

 ザ・モダンフォーク・フェローズは大学卒業と同時に解散、メンバー全員ピカピカの社会人一年生としてスタート。ムーチャンはまじめな銀行員になった。
1998年、縁あってPAMF主催コンサートの出演を機に再結成した。 
それからもずっとムーチャンの歌声は多くの人を魅了した。

 あと数年でバンド結成50年の春の日に、突然ムーチャンは逝ってしまった。 
 あまりにも急な訃報に、しばし呆然とした日々。
 ビブラートが効いた甘い歌声、素敵なスマイル。
 春風にのり、未だムーチャンの歌声が心に響く。

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フォーク雑話その⑩ 南こうせつ「今日も夢見る」

 南こうせつ(南高節 以下「こうせつ」)とザ・モダン・フォーク・フェローズ(以下「MFF」)は、どうやら1968年3月中旬に大分で出会っているらしい。 
こうせつは当事、大分県立大分舞鶴高校の3年生。
1968年3月、MFFはアマチュア学生バンドにして、生意気にも福岡・大分ツアーを実施。そのとき大分で高校生のこうせつはMFFのステージを見ていたらしい
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 当時、彼は「ヤング・フォーク・スリー」なる高校生アマチュアバンドを組んでいた。メンバーは彼のほか伊勢正三、釘宮誠司(クギミヤ セイジ)の3人。
後1970年第一期「南高節とかぐや姫」を結成。当時のメンバーはこうせつ、森進一郎、大島三平。 翌年1971年9月には高校時代の「ヤング・フォーク・スリー」の仲間、伊勢正三とシュリークスのメンバーだった山田嗣人こと山田パンダを迎え、第二期「南こうせつとかぐや姫」を結成している。

彼がいた舞鶴高校は昨年(2010年)創立60周年ということで10月6日、その周年式典が「いいちこ総合文化センターグランシアター」で開催された。 生徒や教職員、卒業生ら千人以上が出席したという。
そこでこうせつは、この「ヤング・フォーク・スリー」を再結成。なんとMFFの持ち歌「今日も夢見る」を歌い、会場からは大きな拍手がおくられたとのこと。
その時のリードヴォーカルは同窓会副会長でもある釘宮とか。

噂によれば、MFFが大分に遠征したとき、こうせつはこのステージを見て、「この程度なら俺たちにも出来る」と確信したとか?

MFFは1967年より「今日も夢見る」を歌い、ニッポン放送の「ヤング、ヤング、ヤング」という番組で月曜から金曜まで毎晩放送されていた。このことから、この大分の公演でも当然歌っていると思われる。

こうせつは1972年10月から74年3月に小室等にバトンタッチするまで、約1年半、TBSラジオの深夜番組「パックインミュージック」のDJを担当している。
 ちょうどその頃、こうせつは私の担当していた山本コウタローの同番組の生放送のスタジオに時々フラット遊びに来ては、小生へのひやかし半分で「今日も夢見る」を歌ったことがある。
もしや、こうせつはこの歌が気に入っていたのではーー。

話題はそれるがTBSの「パックインミュージック」は1967年7/31から1982年7/31まで15年間放送され、多くのパーソナリティを生み出した。フォークソング系のDJだけあげても吉田拓郎、北山 修、南こうせつ、山本コウタロー、小室 等、杉田二郎が若者たちに大きな影響を与えた。
これらのアーティストは全員、現在でも活躍している。
こうせつは今年(2011年)3月までの全国ツアー、そして4月から、新たな全国ツアーが控えているという。

この原稿を書くにあたり、この頃のフォークソンググループの系図を作ってみた。

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フォークソング雑話 その⑨ 「今日も夢みる」の原詩を発見

 「今日も夢みる」という歌、もともとはニッポン放送の「ヤング・ヤング・ヤング」という番組で広く一般から募集し、優勝した曲です。
 その後「万里村れいとタイムセラーズ」がレコード化(1968/3月,東芝EMI)、私達「モダン・フォーク・フェローズ」も「さよならは言わないで」のB面としてリリース(1969/6月、東芝EMI)しました。
(フォーク雑話 その⑤ わがまま学生バンド に関連記事あり)

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 ニッポン放送に寄せられた沢山の作品の中から、この曲が選ばれた後、私達がニッポン放送の第一スタジオで録音したものが番組では放送されました。多分、その録音の折に手渡されたのでしょうか最近、原作のコピー資料が出てきました。
 作詞・作曲は北海道の川本優子さん。 万里村れいさんと私達が録音したのは、その原曲に、前田武彦さんが補詩を、そして中村八大さんが曲に手を加えたものでした。
 まずタイトルの「今日も夢みる」が原作では「今日も夢みて」となっています。 
 原作では、全体を通して、自分が恋した思い出に対する郷愁を胸に、今日も夢みている、というような内容で、あくまで自分の体験をもとに、つらい心情を切々と表しています。
 しかも、そのことをご両親にも言いづらかったのでしょう、「父も知らない、母も知らない、淋しがりやの若者のこころ」となっています。
 この原作に対し、補作後の詩は、多少客観的に希望に燃える若い二人の歌に変身しています。
 さきほどの歌詞は「誰もしらない、誰もしらない、淋しがりやの若者のこころ」としてあり、原作にでてくるサビの部分の詩「消えてしまった思い出を夢みるーー」と過去の時勢で書かれているところは、「ゆれる小さなともしび消さずにーー」、と将来に向かっての希望を抱いてという内容になっていました。
 この様に、ほんの少しの言葉を変えることにより、こんなにも内容が変わってしまうことに、いまさらながらびっくりした次第です。
 原作の詩について言えば、それはそれなりに切ない少女の淋しい気持ちがとってもよく伝わって来ます。しかし当時の番組のコンセプトとして、夢を捨てない明るい若者の歌、というような感じが必要だったのでしょう。その辺りは流石プロの補作という感じがしました。
 ニッポン放送は応募作品の優秀な曲をいくつか選考したあと、アマチュアのグループにそれを歌わせたらしいと思われます。
 私達も3曲歌い、その中の1曲がこの「今日も夢みる」だったようです。この曲のほかにも当時はフォークブームの波にのり、オリジナル曲が毎晩ラジオから放送されていました。


〔今日も夢みる〕   作詞 川本優子、前田武彦  作曲  川本優子、中村八大

あの日の海は  二人のために輝き
あの日の山は  二人のためにそびえてた
あの日のすべてを  今日も夢みる
誰も知らない  誰も知らない
さみしがりやの  若者の心

あの日の空は  瞳の色の輝き
あの日の風は  天使の歌うメロディー
あの日のすべてを  今日も夢みる
誰も聞かない  誰も聞かない
おもい出語る  若者の言葉

あの日のすべてを  今日も夢みる
ゆれる小さな灯消さずに
今日も夢見る  若者の心

 

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フォーク雑話 その⑧ フォー・ダイムス

■フォーダイムス
 
 私の卒業した慶応大学にはジャズ、ハワイアン、カントリー、フォークソング、ロックをはじめ各ジャンルにまたがる多くのバンドがありました。
 大先輩のダークダックス、加山雄三とランチャーズ、カルア(ハワイアン風の名前ですがフィフス・ディメンションやジャズ系の曲がメインと記憶しています)、成毛茂(最近、亡くなったとのこと)率いるフィンガーズ、 ワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦さん等々。 
 各々のバンドの立場も、学校の公認のクラブをはじめ、同好会とか、私達と同じ独立したフリーのバンドなど様々でした。
 余談ですが、上記フィンガーズのメンバーの1人高橋信之は、世界的に注目を浴びたイエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)のドラマー高橋幸広の実兄。そして小林啓子さんの旦那様でもありました。

 余談はさておいて、その頃の慶応のフォークソングのグループとしては、今なお健在な慶応世界民族音楽研究会(K.W.F.M.A)、先輩の「フォー・ダイムズ」、「ランブリング・バーミンズ」、同年代では「ニュー・フロンティアズ」と私達「モダンフォーク・フェローズ」といったところでしょうか。

 先輩バンドでもある「フォー・ダイムズ」は「エルモ」というスキー同好会に所属する学生たちで1965年に結成されました。 オリジナルメンバーは山本峯生さん、岡村一さん、内田信夫さん、そして紅一点の村上和子さん。
 また余談。メンバーの岡村一さんは、「小さなスナック」のヒットでおなじみのGSパープル・シャドウズのキーボード担当の岡村右の実兄です。
 フォーダイムスのメンバーは全員スキー部というだけあって彼らがリリースしたレコード「夕陽が沈む」(1967/1/5発売 東芝EMI)のジャケットに写っている彼らは、真っ黒に雪灼けし如何にも健康な若者たちというイメージです。

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 大学生バンドの宿命というか、男性3人が卒業してしまうと、1年後輩の村上さんは1人取り残され、自然解散。
 その後、彼女は同じ大学の後輩バンド「ザ・フォー・ミンストレルズ」(中根孝、小坂俊幸、武藤重遠、三島通文)という4人グループと一緒に「万里村れいとザ・タイム・セラーズ」というバンド名で、あの「今日も夢みる」をリリース(1968/3/10発売 東芝RMI)しました。
 その後、「タイムセラーズ」は万里村れい抜き(!)で「明日の夜明け」という曲を発売(1968/7/1)したらしいのですが、そのレコードについての詳細はわかりません。
 ちなみに、この「万里村」という名前は、ピーター、ポール & マリーの「マリー」と村上の「村」の合成とのこと。
 その村上和子さん、と言うか万里村れいさん、(と言うか、今は藤田和子さん!!)は、 1997年の春、30年ぶりに新生「フォー・ダイムズ」を結成。山本峰生さんに替わり、仁ちゃんこと岡部仁さん(同じスキー同好会「エルモ」のメンバーだった)が加わりました。
 1999年には東京・六本木のライブハウス「スイート・ベイジル」で華々しく復帰コンサートを開催、自主CDを出版するなど積極的な活動をしていましたが、2005年12月には活動を休止。
 その後、万理村れいさんは新たに「万理村れい&115」というグループを名古屋で結成。メンバーは万理村れいさんのほか第二期フォーダイムスの岡部仁、そして新たに名古屋在住の小林龍彦さん。PP&Mの歌を中心に、新たな活動を始めました。
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2008年5月3日には名古屋の「パラダイス・カフェ」で、同月25日には東京・六本木の「KNOB」でライブを実施。 両会場とも、私とカッチンがお手伝いさせていただきました。
 つい、先日(2008年8月23日)、中目黒のとある小さなスタジオで、仲の良い仲間だけが集ってこのグループのミニ・ライブがありました。メンバーが名古屋と東京に分かれて練習もままならないとは思いますが、そんな距離的なハンディなど感じさせず、ますます磨きがかかり、新レパートリーも大分増えていました。 また、万理村さんは新たにジャズにも挑戦。いままでとは、また違う、いい雰囲気でのヴォーカルも披露しました。

 一方、フォー・ダイムスのベースマン内田信夫さんは、2007年1月、新たに「FOLK-SHU」という、男性3人編成のグループを結成。メンバーは内田さんのほか、島崎五美雄(シマザキイミオ)さん、原暢宏(ハラノブヒロ)さん。バンド名は3人の苗字のアルファベットです。皆さん同じ地元のテニスクラブに所属する音楽仲間とか。
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このグループは60年代を中心にした懐かしいフォークソングを中心に、オリジナルも沢山作っています。
 彼らは2008年6月28日に川崎市麻生区の「カーティス・レイク」という湖に面した素敵なレストランで自主コンサートを開催。ここにもゲストで万理村さん、私とカッチンなどが参加させていただきました。 その後も「日経おとなバンド大賞」に参加するなど積極的に活動しています。

 学生時代からの素敵な音楽仲間でスタートした輪が、いまなお徐々に広がり、新たな仲間が増え、各々が積極的に活動しているのを見るにつけ、つくづく「継続は力なり」と思う次第です。(2008/9/4)

万理村れいさんのHP
http://www.marimurarei.com/index.html
 
 

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フォーク雑話 その⑦ 幻のフォーク専門誌

◆幻のフォーク専門誌
 フォークソングにとても造詣が深く、北海道にお住まいの氏家さんから、以前「FOLK VILLAGE VOICE」(1966年 11月号 Vol.2)という雑誌のコピーを送っていただきました。 私は、この雑誌については、その存在さえも知りませんでした。 26ページのB-5版、いかにも手作りの表紙、一冊50円也。
 まず最初の特集記事は同年9月23日、新宿に開店したフォークソングのお店「FOLK VILLAGE」についてです。冒頭、店内の小さなステージにPPMスタイルのバンドの写真。どうやらオープニングコンサートの模様と思われるます。
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開店した頃、私もこのお店に何度か行ったことがあります。当時の記憶をもとに、その記事に書いてあった所在地、新宿区百人町1丁目-28という番地を頼りに、現地に行って見ました。しかし現在は住居表示も変わり、そこは西新宿7丁目となっていました。当時の資料に「太田ビル地下」となっていましたが、それらしい古いビルの名は「第一太田ビル」となっていて、「FOLK VILLAGE」があった地下1階は「楽苑」という焼肉屋になっていました。 しばらく、その入り口に立っていると、地下に下る階段の様子など、なんとなく当時のことが思い出され、「確かにココだ」、と確信するに至りました。
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この雑誌の記事によればコーヒー1杯100円とのこと、毎週土曜日には夜10時からオールナイトのコンサートもやっていたようです。写真にはVネックのセーターにポロシャツ姿、「平凡パンチ」の表紙や「メンズクラブ」から抜け出してきたような、いかにもアイビールックの若者達が大勢写っています。
 当時は、六本木や赤坂では第一次ディスコブームだったような気がします。まだライブハウスという言葉もなかった時代に、このようなお店はフォークファンにとって、とてもありがたい存在でした。
 時代は変わり、フォークソングを中心としたライブハウスも増えました。曙橋にはバック・イン・タウン、六本木にはオールド・フレンズ・バー、そのほか国内の主要な都市には同じ形式のライブハウスが多くあるようです。
  話を戻して、この雑誌「FOLK VILLAGE VOICE」、別のページには「BEST OF JAMBOREE」という記事があり、ジュニア・ジャンボリーとファミリー・ジャンボリーの人気投票の結果が紹介されています。
ジュニア・ジャンボリーでは1位 ランブリング・バーミンズ、2位 ハミング・バーズ、3位 ニュー・フロンティアーズ 以下クイーンズ・フォーク、三崎ともやす、小林啓子となっています。
 一方ファミリー・ジャンボリーでは、なんと1位に、モダン・フォーク・フェローズ、2位 フォー・セインツ、3位 ブリケット・フォー、以下ブルーグラス・ファイブ、ジ・アイスバーグとなっていました。僕にとって、まさに青春時代の1ページを供に歌った懐かしいバンド名がずらりとならんでいます。
 ちなみに私達「M.F.F」について、この雑誌では以下のように紹介されていました。
『第1位のモダン・フォーク・フェローズは、文字通りファミリー・ジャンボリーの看板スターだけに、文句のないところだろう。編成もP.P.Mスタイルの5人組から、最近は一人抜けて4人となった。全員慶応の学生で「セトル・ダウン」などはすでに定評があるーーー』
私は、当時このような人気投票があったことも知らず、40年以上経った今になっても、このようなお褒めの言葉をいただいたことは、嬉しいかぎりです。
 この雑誌には、さらに新譜紹介や海外のアーティスト情報、来日情報、中村とうようさんや加藤多喜子さん(多分、この方は後に音楽評論家として活躍した加藤タキさんのことではないでしょうか)が執筆しているコラムがあったりと、なかなか内容も濃いものでした。

 この手の雑誌といえば、思い当たるのは「SING OUT」というアメリカのフォークソングの雑誌。ときどき銀座のイエナ書店で購入し、興味深く見たものです。今回ご紹介させていただいた雑誌「FOLK VILLAGE VOICE」は、なんとなくこの雑誌「SING OUT」を彷彿とさせるものでした。 
いったいこの雑誌はいつ頃まで続いたのか、他の号ではどんな記事が載ったのかなど、細かいことも知りたく、編集社であるヴィレッジアン社の住所を見たら、前記の「フォーク・ビレッジ」と同じ住所でした。いまや連絡するすべもなく、編集者には大変失礼とは思いながらも今回、ここにご紹介させていただきました。当時の関係者には悪しからずご了承ください。
 <『ひまな時に読む音楽雑話―その(9)』(2001.5.20記)に追記、編集したものです>

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フォーク雑話 その⑥ 「ジ・アイビー・トワインズ」

■幻の癒し系グループ「ジ・アイビー・トワインズ」の思い出
 
 1960年代前半、日本のテレビから「ペリー・コモ・ショー」、「アンディ・ウイリアムス・ショー」、「マントバーニー・ショー」、「エド・サリバン・ショー」など、数多くのアメリカの音楽番組が放送されていました。
 私もこれらの番組を喰い入るように見たものです。
 それらの番組の中で、「ペリー・コモ・ショー」にレギュラー出演していた「レノン・シスターズ」という三人の女性姉妹グループのなんともスイートなハーモニーが大好きでした。
 先日、昔のカレッジポップスやフォークソングのレコードを整理しながら、懐かしの「ジ・アイビー・トワインズ」の曲を聴いた途端、なんとも素敵なハーモニーが、当時のレノン・シスターズを彷彿とさせ「ジ・アイビー・トワインズ」は「レノン・シスターズ」に迫るグループだったのだと再確認した次第です。

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写真は、東芝EMIから当時発売されたカレッジポップスのオムニバス盤。写真中段の一番右が「ジ・アイビー・トワインズ」。
 ちなみに同じ中段の左端がモダンフォーク・フェローズです。このLP、ほかにもフォーク・クルセダーズ、ジローズ、リガニーズ、などが入っていて今やコレクターズアイテムと言えるでしょう。

 「ジ・アイビー・トワインズ」、メンバーは(写真左から)湯沢裕子さん(ヒロコ)、高世のり子さん(ノンコ)、国東美智子さん(ミコタン)の三人。
当時、湯沢さんのお姉さんが主催するファミリー・ジャンボリーや、ジュニア・ジャンボリーで活躍していました。 
 このグループがリリースしたのはEP盤1枚のみ。A面は都築新一作詞、青山靖介作曲「いつか見た青い空」、B面はメンバーの高世のり子さんの作詞・作曲「思い出の世界」。
 今風に言えば「癒し系」というのでしょうか、単純な回転コード、単純なハーモニーではありますが、とっても心和む響きがあり、なんだか優しくなれるハモといった雰囲気が漂っていました。
 例によってニッポン放送の「フォーク・ビレッジ」に何度も出演したり、レナウンのCMソング<レナウン娘>も歌っていたので、覚えている方もいるかもしれません。 ぼくの記憶では、歌中の「イィわ!」という、ため息まじりのセリフは高世さんだった様に記憶していますが、???

<レナウン娘>
ドライブウエイに春が来りゃ
イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ
イェイ イェイ イェイ イェイ
プールサイドに夏が来りゃ
イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ
(イィわ!)
レナウン レナウン レナウン レナウン娘が
オシャレでシックな レナウン娘が
ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ
イェーイ イェーイ イェイ イェーイ

テニスコートに秋が来りゃ
イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ
イェイ イェイ イェイ イェイ
ロープウェイに冬が来りゃ
イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ
(イィわ!)
レナウン レナウン レナウン レナウン娘が
オシャレでシックな レナウン娘が
ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ
イェーイ イェーイ イェイ イェーイ

 彼女たちと、大ヒット「小さな日記」を放った「フォー・セインツ」、そして私達「モダン・フォーク・フェローズ」の三グループは、学生同士ということもあり、楽屋やスタジオ以外でも何かというと気兼ねなく、頻繁に集っていたような思い出があります。
 当時、営団地下鉄の赤坂見附駅からすぐの所に「八千代」というレストランがあり、ファミリー・ジャンボリーのレギュラーメンバーの溜まり場になっていました。 そのお店の「鳥の包み焼き」(ピラフが鶏肉に包まれている料理)を食べながら、フォーク談義に花を咲かせたのも懐かしく思い出します。(そのレストランのあった所は、今は中華料理屋になっています。)
 この「ジ・アイビー・トワインズ」、ノンコとヒロコの二人は今でも仲良く、新宿の「バック・イン・タウン」や六本木の「オールド・フレンズ・バー」などのアコースティック系のライブハウスで、時々お目にかかります。 残念ながらもう一人のメンバー国東さんは連絡がつかないとのこと。
 ノンコは現在、表には立ちませんが、「風のようにフォークは流れ」というシリーズ形式のコンサートのプロデュースをしています。フロッギーズ、ブロードサイドフォー、そして我々モダン・フォーク・フェローズなどが出演したり、お手伝いをしたり、出演者もお客様も、スタッフも一体になり、フォークソング世代の憩いの場を作ってくれています。このシリーズコンサートに関しては、また改めて書くことにしましょう。 
 
<『ひまな時に読む音楽雑話―その(8)』(2001.4.20記)に追記、編集したものです>

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フォーク雑話 その⑤ ワガママ学生バンド

■ワガママ学生バンドならでは!
 1960年代後半、日本における初期のフォークソングブームはアメリカのグループのコピーが大半をしめていたことは、既にご紹介しました。 日本でもシンガー・ソングライターが注目され始めたのは、吉田拓郎やユーミンこと荒井由実など、ニューミュージック系のアーティスト達が活躍し始めた1970年以降のこと。
 1960年代前半までの音楽界は作曲家、作詞家、演奏家、歌手など、各専門分野が分業していました。
 フォークシンガー、イコール、シンガー・ソングライターというイメージがありますが、日本で始めてフォークシンガーという触れ込みのもとに登場したマイク真木さんのデビューヒット「バラが咲いた」は浜口庫之助さんの作詞・作曲ですし、その後もザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」はサトウ・ハチロウ作詞、「赤い鳥」や「トワ・エ・モワ」のヒット曲に至っては、ほとんど著名な作詞・作曲家によるものです。
 アマチュアのフォークソングがブームとなった1960年代後半は、プロでなくても堂々と音楽を発表し、楽しむことが出来るというエポックメイキングな時代の過渡期だったとも言えるでしょう。
 今回はそんな時期の余り知られていないワガママな学生バンドのお話。

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1968年、すぎやまこういち作曲、橋本淳作詞「亜麻色の髪の乙女」という歌をヴィレッジ・シンガースが歌い大ヒットしたことを覚えていらっしゃる方も多いと思います。 実はあの歌、最初にレコーディングの話があったのは、アマチュアのフォークグループ、ザ・ニュー・フロンティアーズでした。 
 当時、彼らはキングストン・トリオやロッド・マッケンの作品に傾倒し、「日本語の歌なんてーーー」ということで、取り上げなかったとのことです。
 伊藤きよ子さんの歌った「花と小父さん」のヒットを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、そのB面の「星からの便り」という歌(両面とも浜口庫之助作詞・作曲)も、やはり最初は「ニュー・フロンティアーズ」にレコーディングの話があったとか。 きっと、「亜麻色の髪の乙女」と同じ理由で断ったのでしょう。
 
 一方、「今日も夢見る」という曲は私の所属するモダン・フォーク・フェローズがニッポン放送のスタジオで録音し、連日「ヤング・ヤング・ヤング」という番組で放送されましたが、、別のグループ、万里村れいとザ・タイム・セラーズがレコード化するということがありました。
 この曲は同放送局がこの番組を通じ、広く一般に募集し多数の応募曲から選ばれた優勝曲です。 
 作詞・作曲は北海道旭川市の川本優子さんという方。ニッポン放送としてはこの曲を東芝EMIのカレッジポップスシリーズとしてヒットさせようとしたのでしょう。
 私達に、この歌のレコーディングのお誘いがありました。 しかし、何をか言わん、当の私一人が反対してしまいました。
 
 言い訳がましいのですが、当時はレコードデビュー、イコール、プロという考え方が一般的でした。
 私達の実力は、とてもプロとして通用しないと、私は思っていました。
 アマチュア・グループとして、好き勝手ができる方が気分的に楽だという甘えもありました。  
 私一人が古い考え方だったのでしょうか。 結局、私一人のためにメンバー全員にレコーディングという好機を失するという迷惑をかけたような結果となりました。
 そんなわがままなアマチュア学生バンドを前に、ニッポン放送と東芝EMIは頭を抱えてしまったのでしょう。 
 この「今日も夢みる」という曲の為に、バンドをつくってしまうという秘策を考えたようです。 そのバンドが「万里村れいとザ・タイムセラーズ」。 
 万里村れいさんは、「ザ・フォーダイムス」の紅一点、村上和子さん。 
 「ザ・タイムセラーズ」の実体は慶応大学のグループ「ザ・フォー・ミンストレルズ」(中根孝、小坂俊幸、武藤重遠、三島通文)という4人のグループです。 
 そして、1968年3月「万里村れいとザ・タイム・セラーズ」というバンド名で、この曲は無事レコード化され、世に出たというわけです。

 その後、「ザ・ニュー・フロンティアーズ」がステージで「亜麻色の髪の乙女」を歌うのを見たことがありますし、私達「モダン・フォーク・フェローズ」も、1年以上遅れること1969年6月に東芝EMIから「さよならは言わないで」のB面として「今日も夢みる」をリリースしました。
 それなら難しいことは言わないで、始めから素直にレコーディングに応じていれば良いのにーーー。 今にして思えば、若気の至りということで、ご勘弁。 私としては、30年以上経った今でも、なんとなく避けたい話題の一つです。

 余談ですが、その後、東芝EMIから発売されたカレッジ・ポップスのオムニバス版(LP4枚組「永久保存版!フォーク&ロックの歩み1966-1974」)に入っている「今日も夢みる」、解説書では「モダン・フォーク・フェローズ」となっていますが録音されている曲は「万里村れいとザ・タイム・セラーズ」が入っています。もし、お持ちの方がいればコレクターズ・アイテムかもーーー。
(写真は初期ニュー・フロンティアーズ)
<『ひまな時に読む音楽雑話―その(7)』(2001.3.16記)の再編集>

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フォーク雑話 その④ MFQとPPM フォロワーズ

■MFQとPPM フォロワーズ
  私たちのバンド「ザ・モダンフォーク・フェローズ」に、かつて直木賞作家であった故景山民夫君がベースと司会担当だったことは前記しましたが、彼亡き後、なかば強引にわれわれのバンドに引っ張りこんだベーシストがカッチンこと吉田勝宣さん。
1964年、吉田さんは明治学院大学で学友二人(重見康一さん、麻田浩さん)とバンドを結成、さらに日大芸術学部に通っていた真木荘一郎(マイク真木)さんが加わり「モダン・フォーク・カルテット」(MFQ)が生まれたとの事です。
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初期のMFQ、メンバーは吉田さん(ギター)、真木さん(ギターとボーカル)、麻田さん(ベースとボーカル)、重見さん(ギターとボーカル)の四名。
 結成後まもなく、吉田さんご自身の言葉によれば、勉強のしすぎ(?!)で病気になり、バンド活動が出来なくなったため、ギター担当は新メンバーの渡辺薫さんにバトンタッチ。
 私が観客としてファミリー・ジャンボリーやステューデント・フェスティバルなど学生の自主運営コンサートで度々MFQのステージを見ていたのはこの頃でした。 
 当時から現在にいたるまでMFQは居並ぶグループのなかでも存在感があり、なんとなく別格であったような印象を受けています。
 渡辺さんの、歌詞を縫う様な素敵なギターワーク、ベースを弾きながら、ちょっと斜にかまえて歌う麻田さん、ウイットに富んだ重見さんのおしゃべり、そしてアイビールックに身をかためた真木さん、客席から見るMFQはまさに憧れの存在でした。
 真木さんをはじめ、グループとしてもメンクラ(雑誌「メンズクラブ」)のモデルとして何回か登場したように記憶しています。
 体調も回復した吉田さん、今度は乞われて「PPMフォロワーズ」のベーシストとして活躍することになりました。
 それまではベースは弾いたこともなかったということですが、リーダーの小室等さんの厳しい特訓!!!と本人の涙ぐましい努力???により、あそこまでベースを弾くようになれたということです。
 ギタリスト、転じてベーシスト。もともと吉田さんはベーシストだと思っていたのは、私の思い違いでした。 
 ネットでいろいろ調べてみると1965年3月2日に新宿厚生年金小ホールで開催された代10回スチューデント・フェスティバル出演したMFQのメンバーは真木、麻田、重見、吉田となっていますが、同年6月の同コンサートではMFQのメンバーリストに吉田の名前はなく渡辺となっています。
 さらに、同じ年の11月には同コンサートにPPMフォロワーズのメンバーが小室、小林、山岩、吉田となっているので、やく半年の間に病気をし、立ち直り、ベースをものにしということになりますね。
 さらに、さらに3年後、1968年8月31日の同コンサートのゲストMFQのメンバーには真木、麻田(ギター)、重見、渡辺、吉田(ベース)とあります。
 そういえば、最近のMFQのライブでは渡辺さんの姿はみえませんが、吉田さんがベース、麻田さんはギター、という編成です。
 彼にとって、いまやト音記号の普通の楽譜より、ヘ音記号の方が慣れてしまった様子です。時たま私たちのバンドの練習で4パートハーモニーの楽譜を使用する場合など、低音声担当のフッチャン(渕田)がヘ音記号で書いてあるパート譜に四苦八苦している時など、横からさりげなくサポートしたりできるのも、若いころの特訓の成果なのでしょう。
 
 当時のPPMフォロワーズはギターやヴォーカルパートから、ステージ上での動き方までまさに本家PP&Mの完璧なコピーをしていました。 
 PP&Mのもう一人のメンバー、ベーシスト、ディック・ケネス(Dick Kniss)の奏でるベースを私は大好きです。PP&Mの大ヒット「悲しみのジェットプレーン」のイントロ部分や「エヴリ・フラワー」の間奏(アルバム「SUCH IS LOVE」)に流れる、ちょっとジャジーなべースの雰囲気が何とも言えず良いのです。 ほかにも彼はジョン・デンバーやメアリー・マクレガーのバックでも活躍しています。
 
 当時PPMフォロワーズが録音し、パート譜つきで発売された赤いソノシートは現在でも多数の大学のフォークソングサークルで面々と伝承されているようです。そういえば先日、某コンサートホールの楽屋でアルフィーの坂崎幸之助さんも、このソノシートでギターの練習をしたと言っていました。
 このグループのリーダーの小室等さんは皆さんもご存知のとおり、その後ソロ活動をしたり、「上條恒彦と六文銭」というバンドを結成、「出発(たびだち)の歌」が大ヒット、現在も幅広く活動しているので、ご存知の方も多いでしょう。
 今回とりあげたMFQ、PPMフォロワーズに加え、フロッギーズ、森山良子さんあたりが日本のフォークソングの先駆けとなった人たちでしょう。
 当時としてはとても新鮮なアメリカン・フォーク、その素敵なハーモニーやメロディはまさに青春の1ページとして今も多くの人たちの心に刻まれています。
(写真は最近のMFQ、右から吉田、麻田、真木、重見)
 

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フォーク雑話 その③ フォーク・ブームはラジオから

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■フォーク・ブームはラジオから(「フォーク・ビレッジ」)

1960年代後半のアマチュア・フォークシンガーが大変お世話になったのがニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」という番組でした。 毎晩アマチュアの歌や演奏を紹介することで一大フォークソングブームを作りました。

 森山良子さん、マイク真木さん、「ザ・フロッギーズ」、「ブロードサイド・フォー」、小林啓子さん、「PPMフォロワーズ」、「ザ・リガニーズ」、「キャッスル・アンド・ゲイツ」、「ノイズ・ハミング」、広川あけみさん、「フォー・セインツ」等々、この番組からスタートした、またはこの番組に大変お世話になったアーティストをあげればきりがありません。

 この番組に情熱を傾けていたのがニッポン放送のプロデューサー有海喜巳夫さんとディレクターの島田さん。 毎週土曜日の午後、有楽町にあるニッポン放送の第一スタジオで根気よくアマチュアの歌や演奏に対しアドバイスし、録音し、育ててくれました。 

また、度々読売ホール、杉野講堂、共立講堂など都内の中小規模のホールで公開録音を開催してはその模様を放送していました。 

当時、この番組のほかにも数々のラジオ番組が若者を触発し、若者ならではの文化を創っていました。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」、TBSラジオの「パックイン・ミュージック」、文化放送の「セイ・ヤング」などは、深夜を若者に開放し、番組から多くの文化人、歌手、作家などを排出しました。 (ユーミン、トンネルズ、愛川欽也、山本コータロウ、吉田拓郎、みのもんた、近田春夫、数々の音楽や映画評論家、みんなラジオの深夜放送がきっかけで有名になりました)

「バイタリス・フォーク・ビレッジ」や同じニッポン放送の「ヤング・ヤング・ヤング」という番組も多くの若者を触発した番組でした。

 「ラジオから自分たちの音楽が放送される」という魅力は当時のアマチュア・ミュージシャンの誇りとも言えました。 

森山良子さんをはじめ、数々のアーティストを世に排出し、またエイズ基金コンサートなどを仕掛けた大物プロデューサー金子洋明さんは、この番組のスタッフとしてスタジオでよくお目にかかりました。 当時、彼は「スチューデント・フェスティバル」というアマチュア・フォークミュージック団体の主催者でもありました。

 

和製フォーク・ソングと言えば、ベトナム戦争が泥沼に入った当時、新宿西口に集まっては反戦歌を唄っていた人達も、時代の象徴でした。反面この番組「バイタリス・フォーク・ビレッジ」はキングストン・トリオ、P.P.M、ブラザース・フォーなどのアメリカン・フォークソングのコピーバンドをはじめ、どちらかというと洋楽風な曲を得意とするバンドを中心に紹介していました。そんな都会的なスマートさもあり、この番組から前記したような多くのプロミュージシャンが羽ばたいて行きました。

 この番組と連携し、多くのアマチュア作品を世に出したのが当時東芝EMIレコードの辣腕プロデューサー高嶋弘之さんでした。高嶋さんは日本におけるビートルズの初代ディレクターでもあり、あの「抱きしめたい」(I Wanna Hold Your Hand)、「涙の乗車券」(Ticket To Ride)、「ノルウエーの森」(Knowrigian Wood)などの邦題は彼が名付け親です。

氏のお兄様は俳優の高嶋忠夫さん、というより氏は高嶋政伸と高島政宏の叔父さんと言った方が通じやすいでしょうか。クラシック・ファンの方にはバイオリンニストの高嶋ちさ子さんのお父さんです。

この東芝EMIレコードの高嶋さんとニッポン放送の有海さんが、熱心に若者の歌に耳を傾け、学生の主催する数々のコンサートに自ら足を運びラジオで紹介する一方、番組のリスナーから広く歌を募集、その曲をアマチュアグループに歌わせ、番組独自のオリジナルソング「今月の歌」を発表していました。

 それらの歌の評判がよければ、東芝EMIからレコードになって発売されました。

ラジオの番組をきっかけに商品開発されるという、後にも先にもあれほどのマーチャンダイジング力を持つ番組は未だ見当たりません。

このようにして生まれたカレッジポップスブームも時代の流れと伴に、メッセージフォークや関西系のフォークソングに替わっていきました。

※冒頭の写真は「ヴァイタリス・フォーク・ビレッジ 第8回公開録音」 のプログラムです。

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フォーク雑話 その② ザ・モダンフォーク・フェローズ発生秘話

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■ザ・モダンフォーク・フェローズ発生秘話

私の大学生活は1965年から4年間。私達は「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」というグループを組んで活動していましたが、その他にも、慶応大学には前記の「ニュー・フロンティアーズ」、また先輩には「フォー・ダイムス」や「ランブリング・バーミンズ」というグループがいました。

 「フォー・ダイムス」はニ年先輩の岡村さん、内田さん、山本さん、そして一年先輩の紅一点村上さんという4人グループ。 私達と同じく「ピーター・ポール&マリー」スタイルのグループでした。

 「ランブリング・バーミンズ」は一年先輩の北条さんと、当時学習院大学の黒川さんのデュエットグループ。 彼らは「ブラザース・フォー」のナンバーを中心にやっていました。 このグループは残念ながら大学卒業と同時に解散したようです。 

 北条さんは、卒業して電通に就職、後に「ブラザース・フォー」招聘の仕事がらみで、ご連絡を頂いたこともありました。 

 一方、「フォー・ダイムス」は後に、山本さんに替わり、私と同期のO君がメンバーに加わりました。 CDを自費出版したり、六本木の著名ライブハウス「スイート・ベイジル139」で自主コンサートを開催するなど、現在もアマチュアリズムを大切にしながら活動を続けています。

 私達「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」を含め、これらのグループはキャンパス内での自主的な活動、つまり大学としての公認団体ではありませんでした。 しかし前後して「慶應義塾大学世界民族音楽研究会」(K.W.F.M.A Keio World Folk Music Association )というクラブ活動が大学公認団体として発足しました。 1965年のことです。

 このクラブを立ち上げる中心となっていたのは、前記した「ザ・ニュー・フロンティアーズ」にいた新庄君と同バンドのベースを担当していた福山君ほか数名です。 このクラブは「ニュー・クリスティ・ミンストレルズ」風のシングアウト系グループを目指していました。 彼らの十八番「ソーラン節」や「こきりこの歌」は40年経った現在も歌い継がれています。 

 この倶楽部の創設時に中心的な働きをした福山君は、後にプロのベーシストとなり加藤登紀子さんのステージなどで活躍していました。 また、このグループでドラムスを担当していた松本君は、前後して私達のグループ「ザ・モダンフォーク・フェローズ」のメンバーとして加わりました。

 「ザ・モダン・フォーク・フェローズ」は結成が大学1年の時、1965年。 メンバーはグループの名付け親でもある渕田隆大、平沼遼太郎、そして私、稲生ニ平でした。 渕田は当時、フォークソングの自主コンサートサークル「ファミリー・ジャンボリー」の主催者の一人。 御茶ノ水の日仏会館ホールで定期的に自主コンサートを開催していましたが、学生にありがちな放漫運営により、赤字が続いていたとのこと。 

 そこで考えたのが、「ギャラを払わなくても良いバンド」を出演させる、ということだった。 それなら、自分が出演すれば良いというもののギターも弾けないし、人前で歌った経験もない。 そこで彼は、人の良い私と平沼に声をかけ、強引にグループを結成したのが最初のきっかけ。 

 そんなこととはいざ知らず、邪心の無い2名は渕田の熱心な誘いに乗り、何度か練習しました。 私は、それまでエレキを弾いていたので、抵抗はなかったものの、渕田は初めてギターを弾き、平沼は渕田に口説かれウッドベースを買わされ、初めて弾くという始末。 今から考えれば滅茶苦茶な話ですが、それでもなんとか「ブラザース・フォア」のナンバーから「ジョンB号の難破」など2~3曲をレパートリーに、出演したのを覚えています。

 このバンド発祥の話は、30年以上も経った後に、渕田からはじめて明かされた事実。

 そう言えば、度々同じステージで歌った「ジ・アイビー・トワインズ」という女性トリオのメンバーの一人も、渕田と同じ「ファミリー・ジャンボリー」主催者の仲間の妹でした。彼女達もギャラはタダだったのかどうかは今となっては知る由もありません。

 このように、ろくでもない魂胆で組むことになったバンドの練習に励む一方、私は大学のアメリカンフットボール同好会「ダックス」というクラブに所属していました。 

 ある日、このクラブの先輩Gさんから「僕の友人の妹さんで、歌が好きな人がいるんだけど、君達のグループで一緒にどうかと思うんだけどーーー」とのこと。 ノリの良い渕田、平沼、稲生、男ども3人は、さっそく日吉のキャンパスにある学生食堂グリーン・ハウスで、Gさん立ち会いの元、その女性と対面とあいなりました。 その人、オマメこと斑目展代さんは、キャピキャピの文学部英文科1年生。 第一印象は「なんだか目の大きな人だなーー」という程度の印象だったものの、学生ならではのノリというかイージーさというか、歌も聞かずにその場で即決。 彼女はメンバーとして参加することになり、早くも翌週には田園調布の幼稚園の前にある彼女の家で練習していました。

私といえば、放課後のクラブ活動に参加せずに、オマメの家に入り浸っていた毎日。 当然ながら、オマメのお兄さん経由でG先輩に情報は入っていたのでしょう。

ある日、オマメを紹介してくれたダックスのG先輩から「話がある」と呼び出され、「アメラグとバンドとどっちをとるのか」と言われ、軟弱な私はバンドを選び、その場で「ダックス」はクビになりました。  

 オマメがグループに参加したのがきっかけとなり、それまでやっていた「ブラザース・フォア」のコピーは何処へやら。 急に「ピーター・ポール&マリー」へ傾倒し、マリーさん役のオマメを中心にバンドの形態は急変していきました。

 ギター担当としてカズこと最賀和明が加入。 それまで、なんとか一生懸命ギターを弾いていたフッチャンこと渕田はギターから開放されヴォーカルに専念。それまでベースとヴォーカルをやっていた平沼はいつの間にかフェイドアウト。 更に加入したばかりの最賀と入れ違いに、ヴォーカルとギターにムーチャンこと新庄(もと「ザ・ニュー・フロンティアーズ」のメンバー)が参加、。 そして他のバンドで活動していた景山民夫(後に直木賞作家、事故で他界)がベースと司会で参加。 更に前記「K.W.F.M.A」のドラムスをやっていた松本敏男が加わりーーー、という具合に短期間にめまぐるしくメンバーの入れ替えや増員があり、最終的には6人編成(ヴォーカル2人、ギターとヴォーカル2人、ベース、ドラムス)で学生バンドとして本格的に活動を始めました。 <写真はその頃、慶應大学 三田図書館前にて 左から景山、稲生、新庄、斑目、渕田>

 

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